上南戦(上智大学・南山大学総合対抗運動競技大会)は、カトリック大学として同じ教育理念を有する上智大学と南山大学が、体育会の団体を中心として対抗試合を行い、両校の交流を深めるスポーツ対抗戦です。

50年以上の間、スポーツを通して上智大学と南山大学との親睦を深めてきた「上南戦」。その歴史の始まりはどのようなものであったのか。過去の資料とともに、その歩みを振り返ってみたいと思います。

南山大学との交流―上南戦以前の関わりと上南戦のはじまり

そもそも、南山大学との交流は、1950年前後から始まり、演劇、共同新聞の発行といった交流や、野球、バレーボールなどの交歓試合が行われていました。こうした交流は年々盛んになり、クラブごとに親睦を深めていました。そして、1960年に、体育系クラブだけでも時期を統一して、総合的に行うことにより、大学同士の交歓へとさらに充実・発展させることを目指したのです。『上智大学通信』226号では、「それまでラクビー部など体育会の一部のクラブが親睦の意味をかねて交歓試合として行っていたものを、当時の大泉上智大学長の発意により統一して行ったのが発端である」と書かれています。

はじめての上南戦―記念すべき第1回大会

初期の上南戦の様子

記念すべき第1回大会は、「第1回上智大学・南山大学定期戦」として1960年6月25日、26日に南山大学で開催されました。当時学生に同行したある職員は、「最終の鈍行列車に乗り、翌朝疲れ果てて名古屋駅についてみると、ホームから出口までの地下道に南山の学生がズラーッと並んで迎えてくれた」と、南山の熱烈な歓迎ぶりを語っています。この大会では、野球、サッカー、卓球、柔道など8競技が行われるとともに文化団体の交流も行われ、対抗競技は5対3で南山大学が勝利しています。

このイベントを定期的に6月に行う、と正式に決定したのは61年の第2回大会からで、その年の4月に本学体育団体連合会と南山大学運動部との間に正式な締結書が取り交わされました。また、第2回大会以降は、「上智大学南山大学総合対抗運動競技大会」と名称を改めました。

東京と名古屋―上智と南山を結びつけたものとは

距離的に離れた上智と南山を、このように結びつけたのは、両校が日本で数少ないカトリック大学であったということでしょう。それは第1回大会での大泉学長の挨拶にも端的に現れています。「両大学は建学の精神においても、その有する大学の理念においても共通なものを持っている。同じ智を分けた姉妹校と行っても言い過ぎではなかろう。数ある日本の大学の中からこの両大学の学生が相ひき相結びあっていることもきわめて自然である」。

また、『上智大学新聞』151号には、「上智大学も南山大学もカトリックの大学であり、カトリシズムに立脚した建学の精神を、スポーツまたは文化サークル活動を通してお互いに完成させ、未来に社会人としての人格を築く礎にまで高めること」が、上南戦の目的であると書かれています。

スポーツを通して両校の体育系団体同士の交流を深める行事となった上南戦。この上南戦をきっかけに、文科系団体も日程を合わせて交流していた時期もありましたが、その後はクラブごとの交流として続き、現在でも数団体が、定期的に交流を続けています。

定期戦から全学行事「上南戦」となるまで―激動の時代を経て現在の隆盛までの歩み

機動隊が出動した時のキャンパス

定期的に交流を重ね、親睦を深めてきた両校も、時代の流れや変化と共に、困難にも直面します。1968年には、大学紛争の波が上智大学にも押し寄せ、バリケードを築いて一号館等にたてこもった全共闘の学生を、12月に機動隊により排除し、6ヶ月間の全学休校を行いました。この閉鎖が解かれたのが1969年4月7日。このような激動の大学紛争の間も上南戦は休むことなく継続し、1969年の第10回大会は会場を秦野キャンパスに移してまで行いました。また1974年の第14回大会からは学生の負担を考慮し、上南戦を「大学行事に準ずる行事」と扱うようになりました。それ以降は競技種目も増え、毎年6月の年間行事として定着し、今日の隆盛を見るようになったのです。