上智大学においては、1913年の創立当初から赤星鉄馬(実業家)と大島久直(陸軍軍人)の旧邸が学生寮として使用されていました。そこは、上智大学の学生だけでなく、他大学の学生、留学生も生活しており、多様性を体現する「場」となっていました。
本章は、1920年のアロイジオ塾命名から1955年の学生会館竣工までの時期を対象に、草創期の寮の姿とカトリック教育に力を尽くしたフランツ・ボッシュ神父について紹介します。
「アロイジオ」という名は、16世紀後半のイタリアのイエズス会修道士 聖アロイジオ・ゴンサガに由来します。彼は、青少年の守護聖人と位置づけられていることから、寮の名前に採用されたと考えられます。
1932年に現在の1号館建設に伴い、そのそばに新たな寮となる施設(新館)が建てられたと同時に、赤星邸(旧館)も移築されました。本企画展では、これら2つの建物からなる学生寮を「聖アロイジオ塾」と呼びます。左の写真は、旧赤星邸の外観を撮影した貴重なものです。
左下の取り壊し中の旧赤星邸の写真を見ると、旧赤星邸は現在の8号館ピロティ辺りに建っていました。右側に見える1号館出入り口は現在はなく、ピロティの一部となっています。
また、アロイジオ塾新館は現在のSJハウス付近に建っていた事が分かります。(右下のキャンパス配置図ご参照)
聖アロイジオ塾創立40周年(1954年)について報じる「アロイジオ新聞」(第5号)*。聖アロイジオ塾旧館と新館の建設経緯などが記されています。
*戦後、寮内で発行された新聞
聖アロイジオ塾は、カトリック信者のみが入寮を許されていたキリスト教教育実践の場でした。寮には「舎監」(その多くがイエズス会神父)が配置され、寮生たちと生活をともにしていました。この当時舎監をつとめていたエルリン・ハーゲンは、塾の目的を「上智の名誉になるようなカトリックのインテリゲンチャを養成し、それを日本の教会に差し上げたい」と新聞のなかで述べています。寮の設置目的を明確に示すひと言といえるでしょう。
アロイジオ塾で歌われていた塾歌。戦前に寮内で作成されたと考えられている「歌集(うたのほん)」(1943年作成)に掲載されているものです。塾歌から始まるこの歌集には、日本・ドイツ・スコットランド等の歌詞が59曲、原語でさし絵とともに収められています。
戦時中、アロイジオ塾は戦災を免れました。その一方、学徒動員から復員してきた学生たちのなかには、住宅難などにより学業を放棄せざるを得なくなるなど困難な状況に直面していた人たちもいました。そこで、大学はそうした学生たちのために、米軍から払下げられたカマボコ型兵舎を構内に移築し、1948年4月、学生寮を開設しました。これに尽力したのが、当時寮の舎監をつとめていたフランツ・ボッシュ神父です。このカマボコ型兵舎は、「カマボコハウス」または「ボッシュタウン」という愛称でも呼ばれていました。
空襲で焼け野原となった上智大学一帯
左奥に見える建物がアロイジオ塾
右側の大きな建物は1号館北側(新宿通り沿いから撮影、1947年頃)
構内に移築されたカマボコハウス
(現在の6号館あたり)
後ろに見えるのが建築中の初期の聖イグナチオ教会
野球に興じているボッシュタウンの寮生
寮室内の様子
ドイツ生まれ。オックスフォード・シアトル大学で哲学と神学を学び、1940年に来日。日本語を学んだあと1942年から上智大学で哲学とドイツ語の教鞭をとり、学生部長などを歴任しました。
1943年から12年間、舎監長として学生を指導しました。学生からの愛称は「オヤジ」、非常に親しまれていたことがうかがえるニックネームです。